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[まめ雑学1] [美味しく飲む] [稲の国の酒] [酒歴史変遷] [酒歴史変遷2] [酒歴史変遷3] [聖なる井泉]

酒歴史変遷2


伊丹酒から灘酒へ

一大消費都市
「大江戸」への
酒供給

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一大消費都市「大江戸」。

 参勤交代制が確立した寛永十二年(1635)、16万人あまりだった江戸の人口はその後、年を追って急激にふくれ上がっていった。江戸城の本丸までも焼失した明暦の大火のあった明暦三年(1657)には39万人、そして綱吉の治世、元禄年代の17世紀末には武士とその奉行人たちで50万、商人、職人など一般市民が50万人、あわせて百万人という、当時では世界最大の消費都市「大江戸」がつくりだされていた。


 江戸積み十二郷。

 この一大消費都市への酒の主要供給基地は関西で「江戸積み十二郷」といい、ここから酒は江戸に下った。この江戸積み十二郷という名称は天明三年(1783)に時の勘定奉行、赤井越前守が冥加金を徴収しようとしたとき、はじめて使用したというが、なにはともあれ、この時代にはすでに一大消費都市「大江戸」への酒の供給地がはっきり決まっていた事がわかる。

 この関西での江戸積み十二郷を、現在の府県からいうと、堺、伝法、北在、池田が大阪府、そして尼ケ崎、伊丹、今津、西宮、灘、三田、兵庫が兵庫県となる。
旧国名で云うと堺だけが和泉、他はすべて摂津である。


 伊丹酒の栄光と悲惨。

 徳川家斉の治世の享和元年(1801)、伊丹の総人口は8、200人あまり。そして、戸数は2、200戸。この5%にあたる百戸が酒造家で、10万石の米が酒となり、20万丁の酒樽が作られるという、まさに酒の町であった。

 だが、近衛家の手厚い庇護をうけ、最盛期の文化元年(1804)の江戸積み下り酒が28万樽に達した伊丹郷も、12代将軍家慶治世の弘化二年(1845)には16万樽、米国よりペリー提督が浦賀に来航、ロシヤよりプチャーチンが長崎に来航して開国を迫った嘉永六年(1853)には6万樽、更に最後の将軍、15代慶喜が大政を奉還し、王政復古がなる前年の慶応二年(1866)には3万8千樽と、まさに無惨としか言いようもないほどに衰退してしまったのである。
伊丹酒の栄光と悲惨は徳川幕府のそれとあたかも時を同じくしたのである。そして、伊丹も徳川幕府も遂にかつての栄光を取り戻すことはなかった。


 灘酒の台頭。

 酒造統制の必要上から制定された「江戸積み・摂泉十二郷」では、灘は東郷、中郷、西郷、下郷の四地区に細分されていたが、この四地区から下郷が消え、東郷、中郷、西郷の三地区に今津郷、西宮郷が加わって「灘五郷」と呼ばれる。
いまの行政地域でいえば神戸市の灘区と東灘区と西宮市である。

 五代将軍・綱吉の治世の元禄の頃から、十一代将軍・家斉の文化年代にかけて名酒をひとりじめにし、名声を誇った伊丹酒も、摂泉十二郷の定められた天明3年(1783)の翌年の江戸積み樽数では、すでに今津、西宮、灘の三郷の酒造他の江戸積み樽数に大きくひきはなされていたのである。
文化元年(1804)は伊丹酒の江戸積み樽数が最高に達した年だが、この時、すでに、今津、西宮、灘の江戸積み樽数は50万樽に達しているのである。

さらに文政二年(1821)は江戸全期を通じて、摂泉十二郷よりの江戸積み樽が最高の百万樽に達した年だが、この時は伊丹酒は最高樽数に達した17年前の文化元年にくらべて10万樽も激減し、これに反して、今津、西宮、灘のそれは23万樽も激増し、摂泉十二郷の総江戸積み樽数の七割強を占めるまでになったのである。


 灘酒の覇権。

 かくして、欧米列強の開国要求と尊皇攘夷論と開国論の渦巻くなかで、幕藩体制がゆらぎはじめた弘化二年(1845)には伊丹酒の時代は完全に去り、灘酒の栄光の時代が開幕する。
そして、薩長連合の盟約のなった慶応二年(1866)には今津、西宮、灘の三郷の江戸積み樽数は摂泉12郷の総江戸積み樽数の85%を占めるようになり、灘酒は江戸を制圧したのである。


 灘酒覇権の時代背景。

 綱吉・柳沢吉保の時代は「酒は諸悪の根源」とばかりに、酒造規制は厳重をきわめ、その治世中に13回も、酒造制限令を発動し、厳しく酒造を抑制したのをはじめとし、元禄十年(1697)には幕府の財政難を切り抜けるため、全国清酒醸造家の酒造高を調査して、「酒運上」と呼ぶ新型の酒税制度を創設したのである。

それまで酒造家にかけられていた税金は「特別に酒造を許可されて冥加な奴だ。だから、その礼金を献金せよ」という意味の冥加金で、酒造家がもうけの中から出す、いわば直接税であった。
ところが酒運上は「酒の値段、時の相場に5割ほどのせて商売いたし、その5割増の分をご運上として差しだすべし」というものであった。

 これは現代流に言えば50%の従価税で、消費者に転嫁させる間接税の一種である。
この洒運上は「昭和37年の酒税法の改止時に新設され、高級酒顆に課せられるようになり、平成6年の酒税法の改正によって廃止された従価税」とまったく同型のものである。この酒運上こそ、おそらく、我が国の酒税らしい酒税のはしりとみてよいであろう。

 元禄10年のこの酷税「洒運上」に耐え切れず、多くの酒造家は倒産し、姿を消していった。この時代の酒造家にできたことはただじっと耐えるだけであった。


 灘酒覇権の時代背景「正徳の治」。

 酒造家にとっての暗黒時代は綱吉の死で終わりを告げた。
 30年のながきにわたって五代将軍として君臨した犬公方・徳川綱吉は宝永六年に逝去、老中筆頭として権勢をほしいままにした柳沢吉保は隠居、六代将軍・家宣が登場する。この家宣のブレーンの筆頭が当代随一の碩学・新井白石。

 この新井白石が灘酒の発展に大きく貢献した。
 新将軍・家宣は白石の進言を入れ、次々に政治改革を行った。まず、悪評高き「生類憐みの令」を撤廃し、この馬鹿馬鹿しい法令で獄につながれていた3,800人の江戸の町人たちは釈放され、人心は一新し、庶民は歓呼の声をあげる。

 この家宣・白石の新体制「正徳の治」に大きな期待と望みを託したのが今津、西宮、灘など新興酒造地の酒造家たちであった。
家宣・白石の名コンビは「生類憐みの命」に続いて、ただちに「洒運上」も廃止し、一貫して酒税制度の税制緩和の政策を取った。この時を契機に今津、西宮、灘の洒は大発展のいしずえを築いたのである。


 灘の酒造家。

 西宮、今津、灘は後背地に稲作地帯をひかえ、魚肥の需要が多く、干鰊を扱う商人や網元は次第に資本を貯え、しかも魚肥を通して米とのつながりも探く、次第に酒造に進出していった人も多い。
 家宣・白石という名コンビの酒造制限緩和措置は今津、西宮、灘と続く、ひなびた漁村の風景を一変させはじめた。灘酒飛躍の時代が到来したのである。
家宣から家継へ、そして八代将軍・吉宗の治世の享保年間(1716~1735)に入ると海岸にそって酒蔵が建ちならび、漁村は一転、酒の町に変貌した。

 この飛躍の時代をリードしたのが近代・灘五郷(今津郷、西宮郷、東郷、中郷、西郷)のうち、中郷に属する御影村の生魚屋・嘉納治郎太夫宗徳を始祖とする嘉納ファミリー。現在の菊正宗は万治二年(1659)に創業され、これから分業した白鶴は寛保三年(1743)に東郷に創業している。
 正徳元年(1711)には干鰊問屋を営んでいた大阪屋長兵衛が今津で酒造りに乗り出す。今日の大関の始まりである。
そして享保の時代に灘三郷(東郷、中郷、西郷)の灘酒は江戸積み「下り酒」のトップに躍り出る。
沢の鶴、桜正宗、福寿、大黒正宗、滝鯉等々の現在の灘の有名ブランドはこの時代に創業されている。


 灘酒の技術革新。

 灘五郷の新興勢力の酒が飛躍し、伊丹酒を打ち負かし、江戸積み「下り酒」をリードするようになった理由にはいくつか考えられる。
伊丹酒が永年の近街家の保護による“だんな商売”にあぐらをかいたこと、近衛家の政策の失敗、海に接していない伊丹と海に接し、廻船による輪送に至便な地との差などがあげられるが最大の理由は灘酒の技術革新の勝利だった。
 その第一は今津郷、西宮郷、東郷、中郷、西郷の灘五郷では六甲の山なみから流れ落ちる夙川、芦屋川、住吉川、石屋川、都賀川、生田川などの急流を活用して、水車による酒米の搗精を行なったことである。

これに対して、伊丹は臼つき職人による足踏み精米であった。
 水車精米は足摺み精米にくらべ、精米量と精白度ではるかにすぐれていた。足踏み精米ではせいぜい一人23キロ程度なのに対し、水車精米では一ケ所で一日に2,400キロを処理できた。
灘の酒造家は水車で三日三晩搗き通した精米で酒を仕込んだ。その頃の酒米の殆どは一昼夜搗きである。その酒を江戸に出したところ、淡麗な味が大評判となり、こうして精白度の高い米を使った灘の酒が主流を占めてゆく。

慢性的に臼つき職人の不足に悩んでいた伊丹の酒造家は水車精米の高精白米で美酒を造りだす灘の酒造家たちを指をくわえてながめるしかなかった。
 天保年間に先立つ文化・文政の時代(1804~1829)に灘酒は寒造りの酒造技術をすっかり我が物とした。蒸米に対し麹の使用歩合を少なくし、酒母の量に対して、もろみの割合をふやすなどして、灘は近代清酒を完成させる。
こうして伊丹酒没落とうらはらに灘酒が大躍進してゆくのである。


 『お酒の事典』(成美堂出版)を基に作成してあります。
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