近世の醸造技術の
ルネッサンス
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戦国時代が日本のルネッサンス。
中世的貧困と因習的無智の中に沈潜していた日本が動きはじめたのは、戦国時代であった。
戦国時代から安土桃山時代と続く16世紀は日本民族が自ら持てる実力を最大限に発揮させ、エネルギーを燃焼させた時代で、西洋のルネッサンスに勝るとも劣らない華やかな芸術の開花があり、産業技術経済の成長があり、人間精神の解放と民族的活力の高揚があつた。
この時代に日本人の民族の酒・日本酒も大きく飛躍し、今日の日本酒につながる醸造技術が確立する。
寺社僧房の主導型の酒つくりはいつしか姿を消し、新興の酒造地が台頭し、近世の池田、伊丹の酒の興亡の歴史へとバトンタッチされてゆく。
近世の醸造技術が確立した地、池田・伊丹。
池田は大阪湾に注ぐ猪名川の上流の右岸にあり、やや下流の左岸に伊丹があって、おたがいに指呼の間にある。かつては両者とも摂津の国であったが、現在は池田市は大阪府、伊丹市は兵庫県、伊丹空港から池田までは車で約20分である。
池田・伊丹酒の発展のはじまりはきわめて劇的であった。
のちに鴻池勝庵を名乗る大金持ちとなった一人の若者が主人公である。この勝庵の八男の善右衛門は大阪に進出し、大阪鴻池本家の始祖となり、両替商から、やがて鴻池財閥となって、今日の三和銀行につながることでも知られている。
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鴻池勝庵
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尼子十勇士。
『尼子十勇士』は、山中鹿之助幸盛をはじめとする10人の勇猛な武士たちが主家再興のために大活躍するが果せず、鹿之助はついに備中・河部川の川原で斬殺されるという悲話である。
その悲運の武将・鹿之助の遺児・新右衛門幸元は幼少のころ、播州黒田城主・黒田右衛門佐幸隆に引きとられ黒田城内に住んでいたが、天正7年(1579年)、織田信長の武将・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に包囲された。
この時、9歳の幸元は従者に守られ、城を脱け、身をよせたのが伯父・山中信直が閑居していた摂津の国・伊丹の鴻池村(今の宝塚市)であった。
このあたりは万葉の昔から猪名野笹原とうたわれた処で、鴻が盛んに飛来した五つの池があり、それにちなん鴻池と呼ばれる静かな村落であった。
ここで新右衛門は家門再興を胸に秘めつつ、酒造を生活の糧に少年期を過した。
新右衛門一世一代の賭、江戸で酒を販売。
慶長5年(1600年)の春、一念発起した21歳の新右衛門は出来たての酒の四斗樽二つを馬の背に振り分け荷物にして、江戸に向かって600キロの道を下った。
この年の9月、天下分け目の関ケ原の合戦が戦われ、大阪方は敗れ、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らは京都六条河原で斬首された。
新右衛門一世一代の賭「伊丹酒の江戸下り」はむくいられてあまりあった。
来るべき合戦に備えて江戸に集っていた武士たちの飲んでいた酒は技術拙劣な田舎酒であった。そこへ見事に澄んだ上方の酒が舞い込んだのである。新右衛門の酒はあっという間に売り切れてしまつた。
新右衛門はこの成功を契機に、心機一転、本格的に江戸下り酒販売の道を選んだ。時代は、この年を境に、はっきりと徳川の時代となり、新興都市・江戸は急激に勃興する。
寛永12年(1635年)には、大名たちの参勤交代が始まり、江戸は大消費都市・大江戸への道を歩みはじめ、酒の需要は年毎に急増する。新右衛門の慧眼は物の見事に的中したのである。
上方の産品を大江戸に運ぶシャトル、廻船の便。
彼は毎年、扱う酒を増やし、江戸と伊丹を往復した。
馬一頭に四斗樽二つを振り分けにしたものを一駄という。
この道中は遂には百駄を超え、江戸に下る酒樽の隊商に沿道の住人、旅人は日を見張った。これに刺戟され、猪名川をはさんで相対する池田も江戸下りの酒をつくりはじめ、摂津の国、池田と伊丹は江戸積み酒造地として急速に発展する。
その後、大阪・淀川の河口、九条一帯が港として開発され、上方の産品を船で大江戸に運ぶシャトル、廻船の便がひらかれた。
菱垣廻船のはじまりであり、これから酒荷を主体とした樽廻船がわかれ、馬から船へと流通の革新が行われた。
この廻船がはじまると池田、伊丹の酒は小舟で猪名川を下り、大阪から廻船で大江戸に運ばれるようになる。
伊丹酒は大江戸で最高級ランクの極上酒の名を独り占め。
新右衛門改め鴻池勝庵は巨萬の富を蓄え、鴻池財閥に成長したことは既述のとおりである。
伊丹・池田とならび称された池田の酒は元禄の頃には伊丹の酒に大きく水をあけられ、伊丹酒は江戸下りの高級酒として独走体制に移った。
それは酒質のよさもさることながら、もうひとつ大きな要因があった。それは五摂家筆頭・近衛家の手厚い庇護と管理があったからである。
伊丹の領主は豊臣から徳川と移り、寛文元年(1661年)以後は近衛家のご領地となった。池田、伊丹の酒が廻船によって大量に江戸下りを始めた頃である。
近衛家は金の卵を際限なく生み続ける鶏のような酒造業を大いにバックアップした。「近衛殿御家領・摂州川辺軍伊丹郷」という肩書きの伊丹酒は大いに威力を発揮し、品質のよさに高貴性をかねそなえた伊丹酒は大江戸で最高級ランクの極上酒の名を独り占めした。
近衝家が最も気を使ったのは伊丹の酒が乱造によつて酒質を落とすこと、つくりすぎで酒価の下ることをいかに管理して防ぐかにあった。
有名な高級品にニセ物が現われるのは世のならい。これを防ぐため、近衛家は「伊丹郷御改め」という精密な焼印を原産保証の印とし、伊丹の酒造水の領外持ち出しは禁止された。
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伊丹酒から灘酒への
世代の交代
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頼山陽、伊丹酒の大ファン。
花の大江戸の元禄の頃、最高級ランクの極上の名を独り占めしたのは「白雪」「男山」「剣菱」という伊丹酒であった。
「男山」も「剣菱」もいまでは伊丹酒ではない。江戸後期の受難期に他の地域に移り、今に到っているが、その興味ある経緯は残念だが省略したい。
江戸後期の大儒学者で、名著『日本外史』が王政復古のきつかけになったことで知られ「酒を愛すること妻のごとく、酒を惜むこと金のごとし」の人物・頼山陽。
彼は終生、酒を友とし、伊丹酒、なかでも「白雪」を愛飲した。今でも、小西家「白雪」伊丹本社玄関には頼山陽の筆になる白雪の木製の大扁額が大切にかかげられている。
山陽は近衛家の招宴で「魚は琵琶湖の鮮にあらざれば食せず、酒は伊丹の醸にあらざれば飲まず」と言ったという話は有名だが、当時、すでに伊丹酒はその絶頂期を過ぎ、灘酒に王座を譲りはじめていた頃であった。
伊丹酒から灘酒への世代の交代。
八代将軍・吉宗の治世の享保12年(1727年)から廻船による「新酒番船」が行われるようになった。
大江戸の人々がその到着をいまかいまかと待ちわびている新酒輸送の一番乗りを競う勇壮な帆船競争である。
入賞は一、二、三番船まで、船主、船頭の輝かしい栄誉となった。はじまりは大阪港だけだったが、これに西宮港が加わり、文化2年(1805年)からは西宮港だけとなり、ゴールは大江戸の品川港で、西宮と大江戸を結ぶ名物年中行事となった。
伊丹酒は大阪港が、灘酒は西宮港がマザーポートだったから、世代の交代は明白である。
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